日記

親の話と曇り空には千に一つも無駄が無い

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曇り空 ともに輝く明日のために。

1泊2日 南予・宿毛一人旅 2日目

 

に立ち寄ったあとは高知県とお別れです。

 

高知県宿毛市からお隣愛媛県愛南町へ。

 

まずは紫電改展示館へ向かいました。

 

宿毛は朝からどんより曇り空でしたが、愛媛県に入ると真っ青な空。

 

 

紫電改

 

 

育毛剤ではありませんよ。

 

旧日本海軍の最後の戦闘機「紫電改」です。

 

入場は無料です。

中に入ると、いきなり紫電改が目の前に現れます。

 

 

ゼロ戦に代わる新鋭機として開発され、本土決戦の切り札として投入された最新鋭戦闘機が紫電改です。

 

ゼロ戦の約2倍の馬力(2000馬力)

スピードや上昇に優れ、ゼロ戦を上回る旋回能力。

 

「紫電改があと2年早く完成していれば、戦局は違ったものになった」ともいわれたという。

 

 

昭和53年11月、城辺町(現在の愛南町)の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改を地元ダイバーが発見。

 

翌年7月に墜落から34年ぶりに引き揚げられ、恒久平和のシンボルとしてこの地に展示されることになりました。

 

 

当時の引き揚げの写真がありました。

 

 

 

機体は塗装が施され見事に修復され展示されていますが、プロペラは90度内側に曲がったまま。

 

 

着水時の衝撃の大きさが伝わってきます。

 

 

 

 

機体には無数の穴も。

 

 

それでも34年も海の中に沈んでいたことを考えれば、この保存状態はすごいことかと。

 

 

燃料タンクやエンジンの部品、バッテリーなども展示されています。

 

▼燃料タンク

 

▼スロットルレバー

 

▼バッテリー

 

 

紫電改の正面には6名の写真が飾られています。

 

 

昭和20年7月24日、土佐沖から広島方面に向けて200機の米軍機が襲来しました。

 

これを迎撃するために長崎県の大村基地から紫電改21機が発進。

 

宇和海上空で交戦となり、敵機16機を撃墜させました。

 

しかし、この交戦で6機が未帰還となりました。

 

その6機のうちの1機が、海から引き揚げられ展示されている紫電改です。

 

 

未帰還となった6機に搭乗していた搭乗員たちの写真です。

 

海軍大尉   鴛淵 孝 25歳

海軍少尉   武藤 金義 29歳

海軍上飛曹   初島 二郎 22歳

海軍上飛曹   米田 伸也 21歳

海軍一飛曹   溝口 憲心 21歳

海軍二飛曹   今井 進 20歳

 

6人の中のどなたかの搭乗機だったのですが、誰の搭乗機だったかはわからなかったそうです。

 

 

同じ航空隊だった宮崎勇さんの著書「還ってきた紫電改」

34年前に紫電改が引き揚げられた時の様子が記された文章が掲示されていて、読むと泣けてきました。

 

 

34年目の浮上

 

昭和54年7月14日梅雨明けの朝から晴れた暑い日であった。

6人の搭乗員のご遺族、関係者が各地から現地に集まった。

機体がそこなわれないよう、サルベージ船がゆっくりゆっくり紫電改を引き揚げる。

 

青い水面に、紫電改のズングリした姿があらわれた。

「オーッ!」と、どよめきがあがった。

34年の間、暗い湾に沈んでいた紫電改は、全身にビッシリと貝や海藻をつけていた。

日の丸の塗装がまだうっすら見える主翼から、海水がポタポタとしたたり落ちた。

 

風防の先端に、季節の花が可憐にゆらいでいた。

潜水作業をしたダイバーの皆さんが供えてくださったものである。

それを見た米田、溝口君らのお母さん、武藤さんの奥さんたちから、いっせいにすすり泣きの声がもれた。

ご遺族はそれぞれ手にした花束を、もの言わぬ紫電改に船上から捧げ、長い間、静かに合掌しておられた。

 

いったい、だれが乗っていたんだろう?

もしかして、うちの息子、あるいは夫、あるいは兄ではないか・・・というご遺族の想いが、ひしひしと伝わってきた。

 

しかし、機体をくわしく調べた結果、遺骨も遺留品らしきものも、まったく見つからなかった。

搭乗員がだれだったかは、謎として残った。

 

戦後34年目の夏の海に姿を現した紫電改が語りかけるものは何か?

その無言の言葉に、みなさん、とにかく若い世代の人たちは耳を傾けていただきたいと私は思う。

 

『元343空戦闘機搭乗員 宮崎勇著 「還ってきた紫電改」より』

 

 

今もなお5機の紫電改が、どこかの海の底で眠っているのかと思うと胸が熱くなりました。

 

 

遺族のことを思うと複雑ですが、誰の搭乗機だったのか特定できなかったことは、6人全員を慰霊するかたちとなり、これで良かったのかと私は思う。

 

まだ5機の紫電改が海の底なのですから。

 

この紫電改の搭乗者の仲間のことを思う気持ちがそうさせたのかもしれませんね。

 

 

 

こちらは搭乗員たちが首に巻いていた「紫のマフラー」

 

 

 

搭乗員たちが通っていた食堂の女将、今井琴子さんが、自らの花嫁衣裳の白無垢を紫電改にちなんで紫色に染めてマフラーを作って、女学生たちが刺繍した「紫のマフラー」

 

38枚作られた「紫のマフラー」は、多くの戦死者とともになくなりましたが、3枚のマフラーが現存。

 

そのうちの1枚が紫電改搭乗員だった笠井智一さんの「紫のマフラー」

 

 

女学生が刺繍した言葉は『ニッコり笑へば必ず墜す(おとす)』

 

これは笠井さんの隊で撃墜王と呼ばれた上官の座右の銘。

 

各搭乗員は自分の好きな言葉を女学生に刺繍してもらったそうです。

 

搭乗員だけでなく、女性も学生も一緒に戦っていたのですね。

 

 

現在の日本では、コロナという敵に対して国民がバラバラになっているような気がします。

 

 

最後に2階から紫電改を見学。

< p> 

 

 

 

日本のために戦ってくれたご英霊に感謝して紫電改展示館を出ました。

 

 

75年前に戦いの舞台となっていたとは思えない穏やかな宇和海と青い空が広がっていました。

 

 

つづく

曇り空 おとなもこどもも、おねーさんも

1泊2日 南予・宿毛一人旅 2日目

 

に立ち寄ったあとは高知県とお別れです。

 

高知県宿毛市からお隣愛媛県愛南町へ。

 

まずは紫電改展示館へ向かいました。

 

宿毛は朝からどんより曇り空でしたが、愛媛県に入ると真っ青な空。

 

 

紫電改

 

 

育毛剤ではありませんよ。

 

旧日本海軍の最後の戦闘機「紫電改」です。

 

入場は無料です。

中に入ると、いきなり紫電改が目の前に現れます。

 

 

ゼロ戦に代わる新鋭機として開発され、本土決戦の切り札として投入された最新鋭戦闘機が紫電改です。

 

ゼロ戦の約2倍の馬力(2000馬力)

スピードや上昇に優れ、ゼロ戦を上回る旋回能力。

 

「紫電改があと2年早く完成していれば、戦局は違ったものになった」ともいわれたという。

 

 

昭和53年11月、城辺町(現在の愛南町)の海底40mに原型のまま沈んでいる紫電改を地元ダイバーが発見。

 

翌年7月に墜落から34年ぶりに引き揚げられ、恒久平和のシンボルとしてこの地に展示されることになりました。

 

 

当時の引き揚げの写真がありました。

 

 

 

機体は塗装が施され見事に修復され展示されていますが、プロペラは90度内側に曲がったまま。

 

 

着水時の衝撃の大きさが伝わってきます。

 

 

 

 

機体には無数の穴も。

 

 

それでも34年も海の中に沈んでいたことを考えれば、この保存状態はすごいことかと。

 

 

燃料タンクやエンジンの部品、バッテリーなども展示されています。

 

▼燃料タンク

 

▼スロットルレバー

 

▼バッテリー

 

 

紫電改の正面には6名の写真が飾られています。

 

 

昭和20年7月24日、土佐沖から広島方面に向けて200機の米軍機が襲来しました。

 

これを迎撃するために長崎県の大村基地から紫電改21機が発進。

 

宇和海上空で交戦となり、敵機16機を撃墜させました。

 

しかし、この交戦で6機が未帰還となりました。

 

その6機のうちの1機が、海から引き揚げられ展示されている紫電改です。

 

 

未帰還となった6機に搭乗していた搭乗員たちの写真です。

 

海軍大尉   鴛淵 孝 25歳

海軍少尉   武藤 金義 29歳

海軍上飛曹   初島 二郎 22歳

海軍上飛曹   米田 伸也 21歳

海軍一飛曹   溝口 憲心 21歳

海軍二飛曹   今井 進 20歳

 

6人の中のどなたかの搭乗機だったのですが、誰の搭乗機だったかはわからなかったそうです。

 

 

同じ航空隊だった宮崎勇さんの著書「還ってきた紫電改」

34年前に紫電改が引き揚げられた時の様子が記された文章が掲示されていて、読むと泣けてきました。

 

 

34年目の浮上

 

昭和54年7月14日梅雨明けの朝から晴れた暑い日であった。

6人の搭乗員のご遺族、関係者が各地から現地に集まった。

機体がそこなわれないよう、サルベージ船がゆっくりゆっくり紫電改を引き揚げる。

 

青い水面に、紫電改のズングリした姿があらわれた。

「オーッ!」と、どよめきがあがった。

34年の間、暗い湾に沈んでいた紫電改は、全身にビッシリと貝や海藻をつけていた。

日の丸の塗装がまだうっすら見える主翼から、海水がポタポタとしたたり落ちた。

 

風防の先端に、季節の花が可憐にゆらいでいた。

潜水作業をしたダイバーの皆さんが供えてくださったものである。

それを見た米田、溝口君らのお母さん、武藤さんの奥さんたちから、いっせいにすすり泣きの声がもれた。

ご遺族はそれぞれ手にした花束を、もの言わぬ紫電改に船上から捧げ、長い間、静かに合掌しておられた。

 

いったい、だれが乗っていたんだろう?

もしかして、うちの息子、あるいは夫、あるいは兄ではないか・・・というご遺族の想いが、ひしひしと伝わってきた。

 

しかし、機体をくわしく調べた結果、遺骨も遺留品らしきものも、まったく見つからなかった。

搭乗員がだれだったかは、謎として残った。

 

戦後34年目の夏の海に姿を現した紫電改が語りかけるものは何か?

その無言の言葉に、みなさん、とにかく若い世代の人たちは耳を傾けていただきたいと私は思う。

 

『元343空戦闘機搭乗員 宮崎勇著 「還ってきた紫電改」より』

 

 

今もなお5機の紫電改が、どこかの海の底で眠っているのかと思うと胸が熱くなりました。

 

 

遺族のことを思うと複雑ですが、誰の搭乗機だったのか特定できなかったことは、6人全員を慰霊するかたちとなり、これで良かったのかと私は思う。

 

まだ5機の紫電改が海の底なのですから。

 

この紫電改の搭乗者の仲間のことを思う気持ちがそうさせたのかもしれませんね。

 

 

 

こちらは搭乗員たちが首に巻いていた「紫のマフラー」

 

 

 

搭乗員たちが通っていた食堂の女将、今井琴子さんが、自らの花嫁衣裳の白無垢を紫電改にちなんで紫色に染めてマフラーを作って、女学生たちが刺繍した「紫のマフラー」

 

38枚作られた「紫のマフラー」は、多くの戦死者とともになくなりましたが、3枚のマフラーが現存。

 

そのうちの1枚が紫電改搭乗員だった笠井智一さんの「紫のマフラー」

 

 

女学生が刺繍した言葉は『ニッコり笑へば必ず墜す(おとす)』

 

これは笠井さんの隊で撃墜王と呼ばれた上官の座右の銘。

 

各搭乗員は自分の好きな言葉を女学生に刺繍してもらったそうです。

 

搭乗員だけでなく、女性も学生も一緒に戦っていたのですね。

 

 

現在の日本では、コロナという敵に対して国民がバラバラになっているような気がします。

 

 

最後に2階から紫電改を見学。

< p> 

 

 

 

日本のために戦ってくれたご英霊に感謝して紫電改展示館を出ました。

 

 

75年前に戦いの舞台となっていたとは思えない穏やかな宇和海と青い空が広がっていました。

 

 

つづく

-日記

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